人としての価値は時間とともに上がるだろうか?
本当に、上がるだろうか?
個人的には、上がって欲しいし、上げたい。
ロバートキヨサキの著作
『金持ち父さんの子供はみんな天才』
にこう書いてあった。
産業時代は人間の価値は年齢とともに上がり
情報時代は人間の価値は年齢とともに下がる
これを読んでしばらく、
経済的な視点を抜きにした時に、人としての価値が上がるとはどういうことか、
そんなことを考えていた。
年を取れば、変化に適応しにくくなる。
とうぜん、運動能力も下がる。
ボケだって進む。
人の足を引っ張る時が増えてくる。
それでも、人としての価値が上がったり、または保持されることがあるとしたら、
それはどういう場合だろうか。
それは、機微だろう。
年をとるとともに、経験から来る機微を読みとる能力が、他人よりも強くなってくる。
もしくは機微を受け入れる容量が大きくなってくる。
だから価値が上がるのだろう。
では、機微を読み取り、受け入れる力が強い状態になるために、
必要な経験があるとしたらそれは何か。
私が考えるのは、
愛し愛される経験
まあ、これは誰もが思うことだろうから、これ以上言わない。
もっと言うなら、口説き口説かれる経験。
自分を魅力的に見せ、また他人の魅力を追い求める経験だ。
もう一つ、暴力について深く知っていること。
つまり人が傷つけ、傷つけられることについての洞察が深いこと。
最後に、売ることをしっていることだ。
これは、価値提供するということについて深く知っていることだ。
こうしたことをちゃんと経験してこないと、
人としてどうなのかと思われるような、
機微の読み取れない面の皮の厚い人間になってしまうはずだ。
で、ここからが本題
機微を読み取れるような人間に、社畜生活を送っている人間がなれるか?
と考えると、絶対になれない。
月20~30万で生活費用と貯金と仕送りを抜いた金でできることなんて、
たかが知れてる。
働いて残った時間でできることなんて、たかが知れてる。
会社は、全てを鈍化させるための役割しかない。
退屈な作業内容
退屈な人間関係
ビジョンのない日々
魅力を追求することのない人々
洞察のない言動
自分の行動が世界にどう影響を与えているか、考えることの放棄
こうした毎日の先に待っているのは、機微の読み取れる人間か?
我慢を続けたら、それは気づかなくなるだけだろう。
私が高校の修学旅行で沖縄に行った時、
戦争の学習の一環で、バスの中で延々と戦時中の残酷な話を聞かされた。
すると、はじめはみんな真剣に聞いているが、
時間が経つと寝る人間や、別の話をはじめる人間が出てきた。
つまりは悪い意味で慣れてしまったのだ。
この、人としての機微を読みとる力を削ぐ
社畜という生き方は、本当に害悪だと思う。
そう言う意味でも、社畜から脱却しなければ、
人として成長していく機会は閉ざされていくのだ。